一昨日のブログに、忙しさについて書きました。
このブログに、研究者せしおさん (id:Seshio-Researcher)からこんなご質問をいただきました。
久しぶりにコメント欄に失礼します。
忙しくしてそうな人にたまにインタビューしているのですが、望んだ忙しさですか?望まない忙しさですか?
忙しさに対して、ポジティブに捉えてますか?ネガティブに捉えてますか?
二者択一でなくていいので、よろしければ雰囲気を知りたいです。
ご質問ありがとうございます。
いい質問ですね。インタビューの結果の考察を、ぜひ聞きたいです。
以下、私なりの状況についてお話しさせていただきます。
私の場合は、仕事もプライベートのことも「望んだ忙しさ」と「望んでいない忙しさ」が混在しています。
そして、望んだ忙しさなら全然問題ないかというとそういうわけでもなくて、望んだ忙しさであっても、忙しくしているとなんだか殺伐としてくるときがあります。
まさに「心を亡くす」ような状態。
とはいえ、望まない忙しさに比べるとまだいいかもしれませんね。「自分で決めたことだから」と踏ん張りがきくので。
望まなくても降ってくる忙しさ(というよりは苦労案件)については、「あぁまたこの困難がやってきたな」と思います。
仕事でもプライベートでも。
時々、私のところにやってくる苦労案件。
娘の小学校の時の苦労案件とかは、まさにそれでした。
一緒にカフェに行って過ごしたり、学校に行って先生と相談したり、専門機関に相談しつつ対策を練ったり。
当時は単身赴任でしたから。
これらを仕事や家事の合間に、ひとりでこなさなければならない中で、自分自身が壊れてしまいそうでした。
決して望んだ困難ではありません。
でも、この手の「苦労案件」はなぜだか時々私のところにやってきます。
そんなときにいつも思うことですが、私自身は、「一生の幸せの分量は決まっている」と思っています。
大きな水槽を想像してください。
その水槽に、なんともない毎日の中では、少しずつ幸せが降り注いでくる。ちょろちょろとあまり気づかないぐらいの量ですが、だんだん水槽には水が溜まっていきます。
でも、ある時、大きな困難なことに遭遇すると、水槽の底に大きな穴が開いて、せっかくたまった幸せがドボドボと外に出て行ってしまう。
心が空っぽになってしまうほどの、大きな困難。
水槽の中の水は、一気になくなっていきます。
数カ月かけてなんとか困難を乗り越えて水槽の底をふさぎます。
そしてやっと、またちょろちょろと少しずつ水槽に水が溜まっていく。
でも結局、また数年後に大きな困難なことが起きて、水はドボドボと流れ出してしまう。
そんなことの繰り返しです。
修復した水槽は、穴が開く前の水槽と同じものかというと、もちろんそうではありません。ちょっとやそっとのことでは穴が開かない「強い水槽」にバージョンアップしています。
私自身も、これまでの人生の中で、いろんな困難を重ねながら、私の水槽は、そう簡単には穴が開かない水槽になりました。
ただ。
今。
現在進行形なのでブログには書きませんが、とある困難案件にぶつかっています。
これまでには直面したことのない困難案件。
書ける日が来たとしても数年後だと思います。
(書ける日は、もしかしたら来ないかもしれません)
幸い、今は夫がいてくれるので、夫婦で協力しながら対応しています。
あぁ、またこの困難がやってきたな。と思っています。
こうやって時々私のところにやってくるあらたな困難案件。
工夫すれば、必ず乗り越えられるし、乗り越えられる困難だからこそ私のところにやってきているのだと、思っています。
せしおさんからのご質問
「望んだ忙しさですか?望まない忙しさですか?
忙しさに対して、ポジティブに捉えてますか?ネガティブに捉えてますか?」
について。
”忙しさ”という言葉ではなく、”困難”という言葉に変わってしまいました。
(困難案件でなければちゃっちゃとこなせばいいだけなので、たいして忙しくなりません)
忙しさの原因となる「困難」については、望んだり望まなかったり、いろいろです。
困難に対して、ポジティブにとらえているかネガティブにとらえているかについては、決してネガティブにとらえてはいないと思いますが、「勘弁してくれよ」とは思っています。
せっかくためた幸せが、ドボドボと流れ出す。
人生って、なかなか難しいです。
朝からすみません。
こんな風だから、必要なのは「深呼吸」。
今日も深呼吸して、前を見て、やっていきたいと思います。
今日も読んでいただきありがとうございます。今日は、私たちの住む地域は、晴れています。どうかみなさんの心も晴れていますように。