ここ数日は、我が家の学童選びや、小学校6年間の生活を通じて感じた「共働き家庭にとっての小学校生活」について書いています。
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今日から数日は、娘の小学校生活6年間の中で私たちがぶつかった壁と、それを救ってくれたさまざまなできごとについて書いていきたいと思います。
私たちにとってのはじめの壁は、小学1年生の夏頃に経験した「私の病気と夫の単身赴任の決定」でした。
(病気については、数日前のブログには”体の疾患”とだけ書きましたが、別に隠すことではないと思い直したので書くことにします)
正直、今日お話しする話は、私が仕事をしているかどうかとはほとんど関係ない話です。そして、これまでブログでは見せてもなかった、私のとても弱い部分の話なので、ポジティブな気持ちになりたい方は、今日のブログは読み飛ばしていただけるといいと思います。
この先を読む方は、長い人生いろんなことがあるんだなぁ...ぐらいの感じで読んでいただければと思います。
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「小1の壁」とよく言いますが、娘が小学生になった4月の上旬は、私はまだ息子の育児休暇だったこともあり、特に大きな困難を感じることはなく小学校生活をスタートしました。夫とも育児と家事を分担できる態勢にあり、スムーズに新生活をはじめることができました。基本的に子どもたちの送りは夫、迎えは私、という今と同じような分担で生活を回していたと思います。
夕方は、私は18時すぎには保育園のお迎えに行き、そのまま学童に18時30分ごろにお迎え行って、19時すぎには3人で晩御飯、という生活でした。全体に今より30分ほど早い流れで生活していたと思います。
育児休暇明けの部署はよく知っている人たちばかりだったので、仕事もスムーズでした。娘と息子も新しい生活にすぐに順応してくれて、特に問題なく生活が送れるように思いました。
しかし、そう簡単には行きませんでした。
ことの始まりは7月ごろ。
私の3人目の妊娠発覚がスタートでした。
少し体が熱っぽい感じがして、すぐに妊娠かもしれないと感じました。これまで娘と息子とで2度妊娠していますから、妊娠した時の独特の身体の変化はすぐにわかりました。自宅で検査をしたら陽性で、すぐに子どもたちを出産した病院に行きました。1度目の健診(妊娠発覚)の時にはまだ妊娠初期で心臓の動きが確認できませんでしたが、2度目の健診の時には心臓が動いているのが確認できました。「妊娠ですね」と言われました。
まったく予想していなかった3人目の妊娠。正直戸惑いました。妊娠を知った時の私の動揺は、娘と息子を妊娠した時の気持ちとは全然違っていました。おなかに来てくれた子どもには、本当に失礼な話で、私は最低だったと思います。
そして、その頃に、12月から夫が転勤になることも知りました。夫からは当初「2~3年だけ」という説明を受けました。「せっかく保育園も入れたところだし、(娘の名前)も学校に友達ができ始めたから、家族で引っ越しするのは微妙かな」と相談して、年末からは私ひとりで完全ワンオペ生活を始めることに決めました。
妊娠に、単身赴任決定。
もうわけがわかりません。
つわりがひどいタイプなので、妊娠のかなり早い段階で会社の近しい人には妊娠のことを話しました。「仕事復帰したばかりなのに本当にすみません」と謝りました。会社の人たちはみんな優しくて「謝ることじゃないよ。産めるときに産んどかないとね。欲しいと思ってもなかなか授かれないし」とか「単身赴任なんて大変だから、また育児休暇に入れることはラッキーだったかもよ」などと、優しい言葉をかけてくださいました。
私自身はまったくの想定外の事態に「こまったな…」という感想以外は出てきませんでした。本当に情けない話です。
しかし、状況は、数週後に代わりました。
初めて夫と一緒に健診に行った日(それまでは予定が合わずに私がひとりで健診に行っていました)に、「赤ちゃん、大きくなってないね、来週また来て。」と言われてしまったのです。
娘の時も息子の時も、おなかに来た子どもは順調に育って行ったので、お腹の中で子どもが育たないというのははじめての経験でした。
翌週もふたりで病院に行きました。「心臓が止まっています。初期の流産は、誰のせいでもないから」と言われました。その後、「念のため」といって翌週にももう1度見てくださり、そして、私は流産の手術をすることになりました。
流産の手術は成功しましたが、なかなか次の生理がやってきません。そこで、ホルモンのお薬(だったと思いますがはっきりしません)を飲むことになりました。でも、無事に生理も来て、妊娠・流産の件は完了となりました。
問題が起きたのはその後でした。
そこから数週間後に、私は足に痛みを感じるようになりました。一歩前に足を出すと激痛を感じるのです。痛みはどんどん強くなっていき、だんだんと歩くのが困難になっていきました。歩くのだけでなく、痛みで足首が曲がらずに、正座をすることが出来なくなりました。それでもなんとか痛みをこらえれば歩くことができる、という状態がしばらく続きました。
仕事にも行っていました。会議室移動は15分前には開始して、一歩一歩、痛みをこらえながら移動していました。日々悪くなっていく様子を、自分の周りの人は、そっと見守ってくれました。会議室から立ち上がる時に、キャスターがついた椅子だとうまく立ち上がれなかったことがあって、椅子を支えてくれたり、荷物を持ってくれたり。「大丈夫ですか?しんどいですね」と声をかけてくれたり。うちの会社のメンズたちは、みんな本当に優しいです。
8月のお盆には帰省もすることができました。柔らかいソファーには座ることができず、和室でも座ると立ち上がるのに一苦労という状態でした。私の姿に、家族は驚いていました。母には「電話で聞くよりもだいぶひどいね」と言われました。
もちろん痛みが出始めたころにすぐに病院にも行きました。近くの病院に行って、血液検査をしましたが原因が分からず、大きな病院を薦められて大きな病院に通いました。血液検査をしたり、レントゲンをとったり、CTを撮ったりしました。でも、異常は認められないということでした。大きな病院の先生には「あなたがもっと高齢なら、痛み止めの注射を打ちます。でも、若いから、原因も分からないのに注射を打つことはできない。原因が分からなくなってしまうことがあるから。大変だけど、検査を続けていきましょう」と言われました。毎月一度、会社を休んで通院していました。でも、原因は分かりませんでした。
一番悪いのは朝でした。9月の終わり頃には、朝は自力でベッドから起き上がれなくなりました。朝になるとまず夫がお風呂にお湯をためてくれて、私を抱いてお風呂に入れて、私はお風呂で足をマッサージする…。そうすると、一歩一歩なら歩けるようになるという生活をしていました。
正直、仕事はもうほとんどやれていませんでした。パソコンの前に座っている分には特に問題はないのですが、アイデアなんて全然浮かびません。新しいことを学ぶ気力もありません。体調が悪い日には、仕事を休む日もありました。
保育園や学童へはお迎えに行っていました。私たちの地域の学童は学校併設ではありません。学校とは別の場所にあります。とはいえ学区内なので、比較的自宅そばにありますが、車でお迎えに行っていました。学童の入口から学童の駐車場は1ブロック離れているので、そこを一歩一歩、歩いていました。娘は、はじめのうちは「母さん、早く」などと言っていましたが、この頃には、私の横をだまってゆっくり歩いてくれるようになっていました。息子は一歳ちょっとでした。息子の手は、娘がひいてくれていました。
ベッドに横になっていると、私このまま寝たきりになるのかなぁ、などと思う日も出てきました。
そんなある日、私は実家の母に電話をしました。
そして、母からこんなことを言われました。
「あんた、いい加減にしなさいよ。あんたがしっかりせんでどうするとね。まだ子どもも小さいんやし、そんな弱音を吐いとる場合じゃないやろ。(夫の名前)さんも12月には単身赴任になるんやし、泣き言言ってないでシャキッとしなさいよ」
こうして母に喝を入れられて、私ははじめて心の底から「治らなきゃ」と思ったのです。本当にお恥ずかしい話です。
それまでは病院に行って検査をしたりはしましたが、心の底から「よくなりたい」とは思えていなかったと思います。
でも、母の言葉ではじめて「よくなりたい、よくならなきゃ、しっかりしなきゃ」と思えるようになりました。
その日から、会社の人に薦められた鍼やお灸の治療に行ったり、漢方のお薬を飲んだり、いろんなことをしました。動かさないから動かなくなるのかもと思って、曲げたり伸ばしたりも頑張ってするようにしました。
毎月の大きな病院での検査も継続しました。数値は変わらず、原因は分からないままでした。
でも、不思議と、だんだんと歩けるようになっていきました。会社の人にも「なんかちょっと歩くの早くなったね」と言われるようになってきました。
家の階段も一歩一歩両足を揃えながら何とか上がったり下りたりしていたのが、片足ずつでも上り下りができるようにもなってきました。
そして、夫の単身赴任が開始する12月中旬には、私はもうほとんどもとの身体に戻っていました。しっかり治ったのは2月ごろです。3月には以前と同じようにスタスタ歩けるようになっていました。新幹線に乗って出張にも行けるようになりました。つい数ヶ月前には想像もできなかったすごい回復ぶりでした。
結局、原因はよくわからないままです。でも、通院は終わりました。今でも一番最初に行った近くの病院に行くと「足はその後はもう悪くなってない?」と聞かれます。先日もインフルエンザの予防接種の時に聞かれたばかりです。
そんなわけで、娘の小学1年生は、訳も分からないまま過ぎていきました。今日の話は、私が働いているかどうかとは関係ない話で、まったく役に立たない話ですみません。
私の情けない話をお読みいただきありがとうございました。そして、私が働いているかどうかとは関係ない話ですみません。明日以降はちゃんと「働いているからこそぶつかった壁と、それを救ってくれたできごと」について書いていきます。